展評:青野文昭「佐立るり子のアトリエにおける個展 (2022)」(clickでpdf表記)
佐立るり子のアトリエにおける個展 (2022)
ここのところ自分の周辺では「佐立さんが変だ?」と噂になっている。
「いつから変になったのか?」「○○のころからじゃないか?」「いや、最初からなのかもしれない」etc。
私が佐立るり子とその作品を知るようになったのは、リーマンショック後、仙台のアーティストラン・プレイス(SARP)の立ち上げにかかわった時だった。
そのころから佐立の作品は、基本的には抽象画で、既に独特の抒情を秘めた一貫した自分なりのスタイルの様なものがあった。支持体や素材や色調がその時々で変わったりするが(炭を混ぜたりする場合が多い)、むしろ変化の幅は少ない様に思われ、その寡黙とも言える特有の情感は、十数年たった今も実はほとんど変わっていない(後述する様に基本的には今回の個展においても)。
佐立はアーティストランで「会計」を取り仕切り、「企画係」として様々な試みを実行しアーティストランを引っ張った(佐立の尽力により、東日本大震災や近年のコロナ禍をなんとか乗り切ることができたと言っても過言ではないだろう)。いつしかその行動が規格を外れていき、その振幅もしだいに激しくなり、少しずつみんなが振り捨てられてしまった感があった(例えば佐立が企画したものとしては、「仙台の表現の場を哲学する」と題して哲学者とのワークショップを行ったり、アーティストラン・スペース自体の定点観測を現在進行形で記録していくものなどがあった。さらに同時進行的に佐立自身の活動として、ロケットストーブ【*注1】展示販売会&南極体験、林業を取材した木の伐採体験活動、フランス料理店シェフとのスープレシピ本出版にまつわるもの、または宮城県美術館移転問題に関するアンケート調査や意見書提出などの社会的な活動etc)、、、。気が付いたら当の佐立本人がアーティストランを離脱してしまっていた。
そうして、今回の「アトリエサタチ」(ここで、佐立自身の制作活動のほか、「子供美術クラブ」と称して子供に美術などを教える活動をしている)のアトリエ倉庫開設と、そのお披露目を兼ねたアトリエでの自身による個展。一連のこれまでの動きはすべてここに繋がっているようで、、、というよりも、そうした近年の激しい振幅のまさに震源として、その「アトリエサタチ」の活動があったわけで、来るべくしてきたところの象徴的なアトリエ個展であった。
そういうことをつらつらと考えながら、意を決し、ある秋の夜、佐々木健君と、実際その個展会場となっている「アトリエ」へ伺った。
以前アトリエの入っていた古びたビルの裏スペースの方へまわり、ザックザックと砂利道を入っていくと、真っ暗な空き地にポツンとプレハブ小屋が立っていた。周囲の暗闇に光を発散し、壁にはいろいろな絵が描いてあったりよくわからないものが取り付けられていたり、、。行ったのが夜だったこともあり、周囲から隔絶し一種異様な趣である。
中に入ると、コタツや椅子、手製のテーブル、画材、文房具用品、黒板、各種張り紙、子供の絵や工作類、ロケットストーブ、なぜか沢山の竹など、子供の美術教室らしい物品、らしくない物品が所狭しと並んでいる。
そうして一段高い奥に、佐立の絵画が展示してある。深い青いろのものと黒いものの横長の大きな2点で、基本的にはいつもとだいたい同じような抽象画で、変わったところといえば、支持体に穴が開いてぶら下がっているところぐらいか(というよりも穴が開いているシートに描かれていた)。
佐立の描く絵画自体は、それほど変化がみられないのだが、周囲の環境、アトリエ倉庫の状況と絵画の亀裂はいよいよ激しく抜き差しならぬものになっていた。いや逆にあえてなのかどうなのかわからないが、いつも通りの抽象画がぶら下げられることにより、子供アトリエの雑多な空間との間で、どうしようもない隔たりをあらわにしていたということだろう。
絵画の内容も配置も、ごちゃごちゃした子供アトリエ教室に対応した気遣いというものがあまり感じられず、一般の子供達や母親たちの目線、反応、ウケはほとんど考えられていないようだ。通常の意味での「アトリエ主催者」としての適度なバランス感覚は感じられない。逆に無造作な作品―黒々としたモノトーンの抽象画の存在が、部屋を暗くし視界を不穏なものとしていることに「奇異」な思いを抱くことになるかもしれない。「これは何?」と。余計なお世話かもしれないが、、、、「美」というものに対してどこかかたくなな感じがするのはどうしてのなのか?第一このアトリエには美術家がやっている「らしさ」が無い。こう言っては何だがどこもそれほど美しくはない。そういえば実用性一点張りの「ロケットストーブ」も美しいわけではない。
彼女は、絵画の中ではとてもデリケートで繊細な趣味、色彩感覚の持ち主のはずなのに、、、。とはいえ、子育て中の家庭の雑然とした現在進行中の気取ら(れ)なさという感じか、その媚ない姿勢に少し安堵したのも事実ではある(通常、絵の先生などやると子供受け、子供の親受け、子供目線、子供の絵の影響などが浸透してくるものであるし、アトリエなど持つとその整備―大工仕事に精を出しすぎてしまう)。
それではどうしてこのような雑多な場所で「ハード」な抽象画による個展を試みたのだろうか?絵画と子供アトリエ空間、アトリエサタチの活動はどのような関係なのだろうか?どのような関係として見せたいのだろうか?
とりあえずアトリエの活動全体についても触れておこう。何しろ、アトリエサタチの活動は近年の佐立にとってとても重要な位置にあると思われるので。
ホームページの初めには次の様に記載されている。
「アトリエサタチはこどものための美術クラブです。
畑で野菜をそだてたり、自分達で料理をして食べたり、絵をかいたり、ねんどなどの造形をしたりします。
日常をていねいに生きて、世界がどんなふうにできているかを実際に感じたり、社会がなぜこのような仕組みなのかを考えることは、美術的な思考の第一歩です。
さらに、そこで考えたことをなんらかの形で表現できたら、日常は豊かなものになるにちがいありません。
アトリエでは、大人はきちんと大人の事情と意見を伝えますが、ルールづくりも子ども達が行います。」
そうしてさらに次のように続く。
「倉庫は人が住むようにはできていません。
そうした場所で、どうすれば健康に、さらに快適に過ごせるかを考えながら工夫していく一年とします。
倉庫では、調理はすべてロケットストーブで行い、エネルギーについても考える予定です。」
今回確かに実際に伺ってみて、このプレハブ倉庫はいろいろと問題が残っていた。外からしかドアを開けられず、中に入って閉めると出られなくなるので、普段使用時はドアを開けているのだとか。トタンの外壁も相まって、既に秋も深まり寒くなり始めていたが、コタツやストーブが必須になってくる。コタツや照明の電気も外壁に取り付けられたソーラパネルシステムで蓄電していた(全くまかなわれているわけではないらしいが)。また、屋根を伝わって落ちる雨水はタンクに貯水されそのつど使用されるようになっていた(水道自体もホースで引いているそうだが)。アトリエの外には大きな木箱がいくつも作られており、近所からもらってきた畑の土をもとにして季節ごとに様々な野菜が育てられている。以前は借りた近所の畑で子供達と食物を育ててきていたらしい。収穫した様々な野菜(人参、ナス、豆、大根、玉ねぎ、ジャガイモ、、、)を、そのつど、ロケットストーブなどで調理し、パンなども焼いたりしつつ実際に子供達と食べるらしい。*(その他、自分たちで腐葉土を造ったり、味噌を造ったり、梅干を漬けたり、あるいは収穫した玉ねぎなどで草木染をしたり、なぜか羊毛からフェルトを造ったり、様々な活動を季節に応じて行ってきている)。
アトリエ倉庫の整備自体を教育活動の一環に取り込んでいるのもなかなか合理的である。
電気のLED化、ソーラパネル取り付け、内装作り、クーラー設置、水道設置、外壁修理、貯水タンクシステム取り付け、、、など様々な整備のプロセスが子供達と共有され一緒に進められてきている(もちろん電気屋や水道屋や彫刻家などの様々な専門家の協力も得て行われる)。*興味深いことにはLED化やソ―ラパネル設置などにともない、どのくらいの電力が必要となりどの程度の費用がかかるかなど、逐一子供たちに共有され一緒に節電やエネルギー問題や金銭問題が議論されるという。
教室には様々な年齢の子が来ており(佐立自身の子供も一緒に加わっている)、普段は自由に自主的な活動にいそしんでいるようで、あるものは宿題をし、あるものは絵、工作をし、漫画を描き、外でチャンバラをしたり、あるものはプログラミングでゲームを作りやロボット工作などしているそうだ。
その他、様々なテーマ(電気について、本をつくることについて、マレ―シアの教育についてetc)でイベントが組まれたり、招かれた各種の専門家が実際にワークショップの形で関わっていく。しかもそれらの活動のひとつひとつを記録し、漫画、書籍のかたちにまとめてもいく―そうした記録活動自体も子どもたちとともに共同で取り組んでいるのである。
現時点ではあまり大人数でなく、かつ時間での区切りが細かくないことで、そのような融通性が確保されているのだろうか。
以上の様にこのアトリエは、いわゆる「美術教室」の枠を超え、様々な活動に取り組んできている。それも自分たちの空間を整備したり、自らの腹を満たしたり、「心地良く」過ごすために必要なものをいかに準備していくかという、自然な動機付けの中行われ、個々の自主性が大切にされている。
これらアトリエサタチの活動の全貌はあまりにも複雑多岐にわたっているようで、この文章の本筋からずれてしまうので、詳細を網羅し一々を考察するのは差し控える。
ところで、「子供教室」開設に関して、佐立は以前「制作費を稼ぐため」と言っていたが、実際はぜんぜんそうなっていない様に思われるところが面白い。おそらく嘘だったのだろう。制作費を稼ぐための活動は、むしろ経費やエネルギーや時間が惜しげもなくが注がれ拡張し、場合によっては制作よりも「制作費を稼ぐため」の活動の方が大きくなり本業を脅かしていくというよりも本業を飲み込もうとして、今日に至っているように見受けられた。
功利性が顧慮されていないというよりも功利は功利で独自に動き出して、功利のための活動自体が拡張し、功利を食い破って不合理な別次元にいたっており、逆転して功利万能社会への挑戦になっていくようでもある(佐立の場合だいたいすべてにおいてそうなのだ)。
言ってみれば「本末転倒」とも見えるのだが、あらかじめなのか結果的になのかはさておき、「制作費」云々は方便として、確信犯的にその活動の幅を美術の外側へ、自身の興味関心の向かう方角へどんどん広げているように思われる。
そもそも「アトリエ」という呼び名は世間を欺くための物言いではないか?「山岳ベース」さながら裏通りにひっそりと取り残された倉庫を改造したこの「基地」は、絵を教えるフリをしてその実、新しい時代を生き抜くための「戦士」を要請するというか、共に戦士にならんとするための「道場」となっているのではないのか?それを偽装するために「アトリエ」と称しているのではないのか?、、、、と妄想したくなるほど様々なサバイバル術の体験学習が日々濃密に展開されているのである。
しかも、その「アトリエ」自体を作り上げるという具体的な目的を子供たちに課し、「共同体創造の物語」を共に生きながら、自分たちのアトリエ整備のため(実際は古い倉庫をサバイバル用の基地に強化改造)に各活動を組み込んでいくのはとてもスリリングである。それはさながら創造神話を地で生きるようでもあり、理想社会構築に向けたシュミレーションの様ではないか。
「アトリエ」という新しい呼称とその「場所」(プレハブ小屋)は、一見人畜無害でとても融通性に富み、佐立の貪欲な興味関心とその各種活動・実験と実践、そしてその行く末を、その未完の現在進行形のまま許容・集約してくれているような気がする(アトリエとは完成品が展示・販売されているところではなく、制作するところであり、様々な途中経過、実験が許され続ける場所でもある)。「アトリエ」とは便利な言葉であるとあらためて思う。この令和4年の世の中において、子供達の「アトリエ」なるものを、いかに「危険」だからといって、鉄球で粉砕することは誰もできないのだ。
いずれにせよ、自分たちで作り上げた(整備した)この小さな疑似共同体は、それ自体が今日的状況をサバイブするラジカルな生命感に満ちていた。
現時点で見た場合、結局これまで「アトリエサタチ」で行われてきた様々な活動のエッセンスが、佐立の作品(抽象画)内部に反映され展開していく様子はあまり見られない。むしろ「従来の抽象画」/「近年の様々な活動」がそれぞれ並列されながら、それらを包み込み内包していく様な、もう一つ大きなフレームが形作られていく様が見て取れる。このフレーム―現在進行形の「アトリエサタチ」なるものが、現在の彼女の切実な作品そのものなのだろうか?と簡単に言ってしまうこともできよう。
もしかするとこの「ハードな抽象画」の存在により、実用度の高い各種活動が、激しく対比され続け、結果的に、中途半端な「なんちゃって」体験学習に陥るのを未然に防いでくれているのかもしれないとも思える。通常これらの活動は、絵の教室などでよくありがちな、あくまでも「美術」を口実にした、「情操教育」的な、あるいは絵の題材・教材的な、ゆるい課外活動的位置づけに留まりがちである。同時にこのような教室での「美術」の方の扱いもまた、体験学習が逆に口実となって、中途半端で「ゆるい」ものに留まる場合が多い(「貴重な体験」を経て作られた作品のスカスカな場合の多いことと言ったら、、、)。相互に依存し合い何となく良いことをやっているようで、それだけで満足してしまい何をしているのかよく解らなくなってしまうのである。
だから雑多なアトリエ空間の中央奥に掲げられたこの抽象画の隔絶した存在は、それらしい(子供絵画教室らしい)通俗的な美術教室的回収をあらかじめ阻止しているともいえる。安易な相互依存は初めから封じられることにより、各所それぞれに不揃いで、分裂的になったり、不穏な尻切れトンボになったりすることもあり、予定調和しない。この並列と断絶。佐立は無意識にそうした所作をあえてとることにより、偽りのない、美術(これまで自身のやってきた抽象画)と各種活動分野(今日、生きることに必要な)のそれぞれの意味や距離を、自分なりに測ろうとしているのかもしれない【*注2】。
絵画制作とアトリエサタチの活動、、、、抽象画と社会、、、ファインアートと雑多な世界の事象。
この亀裂はいわば佐立だけの問題ではない。これまでの現代美術。我々の世代(もちろんそれ以前の世代も)みんなが直面する亀裂である。
ちまたでは「近・現代美術」凋落後の世界的潮流の切り替え転換に対し(それ自体、日本の場合既に周回遅れでもあり)、「しれーっと」ただただ追随するかのように切り替わり、美術手帖をはじめとするメディア関係から時間差はあったものの、美術館関係やアカデミズム、作家、、、といつものまにか様変わりしてしまって久しい。その中で作家や学者の多くはうまく転換できずーというよりもそのような必要を感じない、良しとしない者も多く、世代間で差が出て(というか世代交代が進んで)いる。自分の身近で感じるのは「3,11」後にさらに決定的にその亀裂が露呈したように思われた。
今回佐立があえて従来型の抽象画を「アトリエサタチ」にぶら下げて見せたのは、もしかするとこの決定的な亀裂を正直に見せたかったのかもしれない―無意識的に意識的にしろ。
ある種の世代にとっては、この亀裂の認識からはじまらなければ、今日の現実を踏まえた表現は生まれようがない。
「しれ―っと」―とすばやく抽象画が無かったかのように別な形態に作品を移行させるようなことはできないし、何事もなかったかのように今まで通りの抽象画で今まで通りのホワイトキューブで展示することもできなかったにちがいない。
後述するように、農業系出身で、3,11の被災地(石巻)で生まれ育ち、コロナ禍の中、子育て中の佐立にとって、この亀裂―分裂は避けようがない誠実さの証である。
二つの世界の関係は様々でありうる。分裂して対置対立されたり、並列共存されたり、あるいは混ざり合って融合―統合されたり(その結果別なもう一つのものになったり)する。統合のありかたもいろいろあって、例えば、文字通り構成要素レベルで混ざり合うー混合物的な場合とさらには化合物レベルの場合が想定されるだろう。今回の佐立の個展でうかがえるのは、先述したようにより大きなフレームの創出による緩やかな統合である。より大きなフレームとは「アトリエ」のことである(概念的にも物理的な倉庫的空間としても)。そうしてこの「アトリエ」というフレームはとても柔軟で現在進行形な可変性に満ち、作者である佐立自身でさえも凌駕する(複数の子供達の好奇心や意思が反映されている)ものである。
そうするとこのアトリエ内にぶら下げらていた「絵画」は、さながらこの空間に鎮座し見下ろす「神棚」の様な位置にあるかもしれない。事実そうした日々の活動の邪魔にならない位置に「タナ上げ」ではない「タダ上げ」られてつるされていたのは興味深い。
とは言ったものの、、、このアトリエが今後どのように推移していくのか?けっして予断を許さない。
そもそも上述した感想も、期待の混じった勘違いにすぎないものだったかもしれない(佐立自身は体験学習を重視した子供の絵の教室をただただ愚直に目指しているだけなのかもしれず、また自身の絵画制作を展開する余裕が無いだけなのかもしれず、ただそれぞれが不器用に並列して投げ出されただけだったのかもしれないのである)。
今後この「アトリエサタチ」は、普通の子供絵画教室になってしまうのか?それとも「美術」とは名ばかりの体験学習を売りにしたアトリエの企業化へ向かうのか?あるいは人が減り自身の子も成長して、しりすぼみ状態になり、以前の佐立自身の普通のアトリエになってしまうのかもしれない。あるいはこのままギリギリの綱渡りの様な濃密な状態を維持し地道に続いていくのだろうか?
その上で、このアトリエの活動が、佐立の抽象画に反映、集約され、さらなる充実した「絵画的」展開をみせるのか?あるいはタブロー抽象画を離れて、種々の活動をいわゆる今日的なアート的装いで提示して見せようとするのか?あるいはそれぞれの要素が融合し「美術」や「アート」とは別な何ものかのかたちをみせてくれるのか?
なおその行く末を注視してみたい。
アトリエ訪問の帰路、「こういうことがやりたかったんですか?」と聞くと、不敵にも佐立はただニヤリと笑うだけだった。
*注1
ロケットストーブは、空き缶を再利用した手製の簡易調理器具である。拾ってきた小枝など少ない「燃料」で煙まで燃焼し強い火力を発揮するという。
*注2
このようなことを書きながら、実は、自分の子供時代に通っていた「絵の教室」のことを思い出していた。私は小学校4年~6年まで、近所に住む画家石川舜先生の絵の教室に通っていた。普段は与えられたモティーフやテーマで静かに絵を描いていたのだが、たまにみんなで遠出することがあった。一度、広瀬川の中に入って遊んだことがあった。みんななぜかどんどん中洲の方へ入って行って顎のあたりまで水につかった。プールや海水浴場の経験はあったが、近所の川の中に 勝手に入ってもいいんだ!とその時知った。学校とは違った感覚・面白さがあった。石川先生は黙っていたが、かなり危ない状況だったと今ではーその時も子ども心にー感じていた。幸い深みにはまって溺れる者が出なくて良かった。みんなどろどろになって帰宅し親に驚かれた。その時描いた絵は全く覚えていないが、不気味な水の匂いや深緑の濁った色や肌触り川底の気持ちの悪い感触、そして危険な感じ、恐れ、、、を今でも覚えている。
そんな「絵の教室」は石川先生のアトリエ内で行われ、壁面には石川先生自身の大きな抽象画(抽象平面作品?)がびっしりかけられていた。どこか近づきがたい不思議な趣のある(様々なフォルムを切り取って反転後再び縫い合わされた)重々しい金色に塗られたシリーズで、室内の雰囲気を形成していた。自分たち子どもが描いている絵と直接のつながりはなく、決定的なへだたりを持った不思議な空間であって、犯しがたい芸術の領域を肉体に体感させてくれていたのかもしれない。この距離感。「別な世界」があるという予感は重要なものではないのだろうか?
とはいえ後年石川先生は「青野君は絵にボールをぶつけたりしていた」と話していたが(しかしそうした記憶はないので、おそらく自分ではなく別な子だろう)。
*補足1
この歳になるとだいたいのことは想定内で、しょせんケチな現代人がやることはおおよそ察しがついてしまう。しかし、たまに想定外の、パターンの外れた、異質なものに出会うこともある。今回のアトリエサタチにおける個展でも「何か面白いものを見た」と思ったのだった。
だいたい察しがついてしまうということでいえば、特に美術教育―絵画教室展のたぐいなどは、ほとんど失望を禁じ得ない。第一自分がその失望から一歩も出ることができていないで、自分にブーメランが戻ってくるので不快この上ない分野なのだ(自分も以前絵画教室に通ったり、務めたり、経営したりしてきていたし、中途半端ながら各種学校で長年美術教育に携わってきた者である)。*(そういう中にあって、新妻健悦先生が主催する「アトリエ・コパン」の活動のみは奇跡的にその例外中の例外としてかねがね感服している次第である)。
そもそも美術の名のもとに、教育の名のもとに、子供の名のもとに、、何かをやろうということに懐疑的だ。特にそこに利害や功利が結びつくと、、、、。
恩師の石川舜先生は「芸は身を助ける」という言葉が大嫌いだと言って、教師業と制作の並び立たないことに関して常々力説しておられた。何しろ「この世は罠が多い」とは石川先生の口癖だった。
えてしてアトリエに籠って作品作りをする孤独な作者ほど、外界で子供に関わり喜ばれたりするとうれしいもので、具体的に社会に関係する手ごたえを感じたような気がするわけである。「まとも」な人ほどやりがいと手ごたえを感じ、まじめに美術教育にエネルギーを投じていくものである。
さらに言えばそうした場合多くの者が、社会的責任を自負し、さらには主張・誇示しはじめたり、結局は月並みな美術教育に終始したり、あるいは、独善的で過剰な教条主義、賞獲得至上主義、派閥主義を招いたり、あるいは作品作りではなくアトリエ拡張へ勢力拡張へ自己実現の欲望が発揮され、人数を増やすために、より効果的、効率的な活動に流れ、親の目を意識した空虚でわざとらしいものに陥るだろう。どうしても大人数を毎日相手にするとそうしたことになりやすい(学校教育の現場における「研究授業」の類もおおよそそのような問題がある)。そうしてこれまで多くの友人知人が、社会との結びつきを強め、反比例的に、実際の美術の現場からは消えていった。いろいろな負のパターンを見つくしてきているので、今さら自分はもうそういうのは見たくないし一々指摘する気も無い。
「制作費を稼ぐ」と佐立が嘘ぶいたように、そういう石川先生も子供絵画教室をやっていて、そこに子供のころの自分も通い出会ったのも事実であり、日本の美術家の多くは、そういう矛盾の中、粛々とやらざるを得ないことをやるほかないのであり、そこに多くのパワーを注ぐのではなく、さりてとて手抜きをするわけではなく、また何か別なそれらしい大義を掲げることもなく、地道に粛々とやればよいだけのことであろう(それ自体、石川先生の教室の様に良質なところもあるし、様々な意義もあるし、意味のある幸運な出会いもあるわけで、けっして否定するものではないことは当然である)。
そして、そういう美術教室なる活動ならば、わざわざ第三者が出かけて行って見たり興味を持つ必要はないのである(そういえば石川先生は「子供たちはせっかく好きで絵を描いているのだから評価とか賞とかで変な意識をさせたくない」というスタンスで、極めて対外的評価に対しては冷淡だったのは、子供心に強く印象に残っている)。
とのことでたいがいの場合、このてのことに、鼻からすでに期待はしていないし期待してもいけないのである。
しかし、アトリエサタチは、そうしたありがちな美術教室活動というものとは少し色合いを異にしていた。それは何なのか?それを自分なりに考察するのがこの文章の一つの目的なのだが、、。
ついでに言えば、昨今よくみられるワークショップやコミュニティーアート、アートを使っての地域おこし、さらに言えば体験型アートのたぐいも、多くの場合、同じような失望を感じることが多いのも事実である。既に一般的に言われていることだが、、、、アート?教育?に関わるものは助成金や事業実績の既成事実化を目当てにし、主催者側は町おこしや、商店街の活性化、話題づくり、やってます感のために、文化やアートや子供教育を用いようとしている。
アートとは異なるというかその境界線上の、外部の、実世界のさまざまな分野、職業、体験にコミットしたアートも昨今よく見かけるようになったが、多くがその専門書の一冊にも値しない薄い体験・情報だったりする。それを「アート」の手さばきで関わり味付け処理する。アート界隈の人間には、普段現実離れした閉鎖的芸術村社会に住んでいるので、これら実際的な「現実社会のなりわい」が新鮮なのだろうが、ややもすると美術が現実世界へ溶解しているだけで、逆説的に慣習的な制度に支えられなんとか「成立」しているように見えるだけだったり、、、。そもそも「制度」を批判したり問題視する活動が、実のところ助成を受けるのに熱心で「制度」に支えられ、美術的制度としてのミュージアムで提示され権威づけられるという奇妙な塩梅になっていたりする。その上、そうした活動は、結局アートでやる・ある必然性が無い場合が多かったりするのだ。
アトリエサタチでも下手をするとそういう方向へ進んでいく危険性が皆無ではない。しかし、例えばアトリエサタチが発行している膨大で濃密な記録漫画・書籍を一読すればそのような心配は杞憂に終わるだろうことがわかる。
むしろ、アトリエで展開される佐立たちの様々な好奇心が、従来の美術的な領域を越えているというよりも、美術的次元をほとんどスルーしていることに驚かされる。せっかく「アトリエ」と名乗っているわけであるから、もう少し美術的切り口で現実社会との接点を探っていくことも可能ではないかとさえ思えるのであるが、、、。逆に言えば、幸か不幸か、農業系出身の佐立の出自がいわゆる「美術村」とほぼ無縁であり、そういったこれまで繰り返されてきただろう美術界隈的なこなれた「手つきの」器用さがほとんどなく、逆説的に美術終焉後の混迷する今日的サバイバル的リアリティー(美術「以前」的な)をも感じさせさえするかもしれない。そもそも現在の佐立は、従来型の作品的成果や「アトリエ」の拡大や仕事の効率化を望んでいるわけではないようなのだ。自分の好奇心、子供たちの未来(自身の子供もふくめて)への使命感。そこで立ち上がる疑問や問題に一つ一つ「丁寧」にかかわること。掘り下げること。記録・伝えることに純粋に喜び(やりがい)を感じているように見受けられる。形式はともあれ、そのエッセンスは今日的美術作家に求められる試行とも相通じるものがあるだろう。
アトリエサタチのホームページでは「日常をていねいに生きて、世界がどんなふうにできているかを実際に感じたり、社会がなぜこのような仕組みなのかを考える」とわざわざ述べられているが、まさに日々の忙しさにかまけ、あるいは世間体に流され、なおざりにされる日常の様々が、「ていねいに」問題にされ掘り起こされていく。子供の目を通した佐立たちの好奇心とアトリエの治外法権的融通性の相まった活動の「スタイル」は、様々な今日的問題に対峙していくための、佐立ならではの一つのフォーマットとなっているようだ。
そうしてみるとこのアトリエで過ごされる時間は、子供たちにとって、この世ならぬなんと贅沢なものであるかと思えるのと同時に、「美術家・佐立」にとっても大変有意義なものになっていると確信できる。
ところで先に「アトリエ」という名は偽装ではないかと述べた。
なにしろ「アトリエ」(→アート)の名において、公然と好きなことをやっている。アートとして好きなことをやっているのではなく、アートとは別なことをアトリエ内でやっているわけだ。
そうしてそれらがアートの「題材」にされるわけではなく、都合の良いかたちで切り取られ・去勢され安易な絵の中やアートへの回収がされるわけではない。しかも、けっして絵を描かないというわけではない。絵や粘土も工作もやる。絵は絵。それぞれの活動は活動で「探求」される。亀裂はそのまま。
むしろ、各種の活動、それぞれのやりたいこと、やっていることが、アトリエという場によって連結され、かつそれぞれが交差し自然な形で交わっていく。「アトリエ」(→アート)という多義的な今日的ありようがそういう無縁のアジール的空間を助長し、治外法権的な大儀名分を与えているようでもある。
「アトリエ」という名が「美術」という制度や権威ではなく、他の何か、、特化したものというよりも、そのつど様々なジャンルを繰り広げる透明なプラットフォームとなり、それらを結びつけることを許容してしまう、融通性のあるフレームとして作動している。透明なというのは功利的・資本主義的な、あるいは何らかの社会的意味合いや価値づけの外にあるという意味でもある。アートにおける前衛的実験が終焉してしまった後で、今日的な脱ジャンル的(美術内のジャンルではなく、美術とそれ以外の様々な領域)、脱領域的―サバイバル実験場としてのスペースとして、「アトリエ」の場が存続しているとすれば、まさにアトリエサタチは今日の「アトリエ」の名にふさわしいのかもしれない。
*補足2
誤解を恐れずに言えば、佐立の場合、少なくとも出産を経て何かが変わったように感じられる。(その上で、たびたび触れているが、大学が農業系の出身であること。また東日本大震災を経たことも決定的であったと感じる)。
*(このようなことに触れると、ある方面の人々からは至極嫌がられるだろうことを承知の上で、しかし、近年の佐立の確信的な行動を見た時には、やはりとても重要な決定的なことだと思うので、あえて最後に触れておくこととする)。
何よりも出産をへてより激しくラジカルにかつ現実的になったように思える。
期せずして、子供をとおして、未来と現実と社会に具体的にぶち当たり続けることになる。親として、人間として「今」はずかしくない行動をとることを迫られる。実践することを迫られる。自分は何者で、これから何をして、何を伝えていくものなのか?
子供を通して自分の昔の記憶を思い起こす。もう一度「ヒト」としての成長を再生する。
自身の子育てと作家としての作品制作と制作費を得ることと子供教室経営と未来へ(震災・パンデミック以降の混迷する世界)生きんとする希求、、
「アトリエ」の中で、全てが結びついて混ざっている。それは単なる美術制作でも美術教育でも食育でも子育てでも保育園・預り所、習い事でもすまない。すべてを「アトリエ」に集約してくるとなると、逆に逃げ場が無く、誤魔化しがきかず、常に分裂と破局が単に隣り合わせで、大きな危険性と隣り合わせとなることは想像に難くない。
昔大学で教わった美術教育の教官(坂本小九郎)が、「美術は教育現場こそ最前線」であると言っていた。当時は無理筋の教育者の自意識か?と感じたのだが、今にして思うに、確かにそういう面はあるのかもしれない。それは学校教育の中というだけではなく、日々の子育ての中にあってなおさらであろう。慣習化された美術的文化が通用しない、そして日々成長し続ける子供達に直接対峙し続けるわけであり、これほどスリリングでぬきさしならぬーそして骨の折れるー毎日毎日のーボロボロになる労働は無い。
生活すること。日々成長する子供を相手にすること。これは毎日が勝負なのである。そのつど今しかないのだ。しかも一度の特別な研究授業や印象深いワークショップでは終わらない。毎日毎時間続くのである。アトリエ発行の記録漫画でも述べられているが、畑仕事も季節やタイミングが何より重要で、今やらなければならないことをそのつど適正なタイミングでやらないと、その年は良い野菜が育たなかったりする(人間の場合1年サイクルではないので、来年もう一度試みることもできるし、逆に言えば取り返しがつかないことにもなりかねない―というか個人個人によって千差万別でもっともっと複雑だと思うが)。日々の継続と同時にその時々の今しかできないことの連続、、。
おそらく、、、最近変なのは佐立ではなく世界の方なのだ。その変な世界―危機的なこの世界に対して生き残るためのアクションをラジカルにはじめた。いよいよそれに本気を出し始めたにすぎない。
先に、どこも美しくないといったのは逆説的に誉め言葉ととってもらっても良い。
ありがちな絵の教室的な予定調和の美観、美を超える。自身の描いている抽象画までをも飲み込む。何か気迫で満ちている。どこもあそこも輝いているではないか。
*今回の個展は、文章中で触れた「アトリエサタチ」内に展示された2点の絵画のほか、以前アトリエとして使用していた隣接する熊谷ビルの一室でも展示が行われていた。黒色系の抽象画が展示されたほか、押し入れの中に、自然の木がつるされライトアップされるインスタレーションによる展示も行われていた―ということを文章では触れられなかったが最後に付け加えておく。
青野文昭
写真:小岩勉(1,2,3,4,5,7,8,9,10枚目)