2020年12月15日(火)~12月20日(日) (SARP、宮城県仙台市)
「自己は、自分と他者の間に作られる」ということを、昨年 SARP で行われたアートノードトーク「仙台の表現の場を哲学する-この街の哲学者との対話-」の中で哲学者の野家啓一さんがお話されました。子供の絵について学ぶと、10 歳前後にそれまでの絵が様々な視点から描かれているのに対し、ここにいる「わたし」が見ている「あなた」という固定した視点が確立されるとあります。それが、 幼児のときからさらに成長した自我の芽生えなのだそうです。確かに、子供に関わっていると、4 年生ぐらいから友達関係は複雑になっ ていき、やがてゆるやかに思春期へとつながっていくことを実感として感じます。 大人とは、自分自身が自己について今だに迷っているにもかかわらず、そうした成長過程にある人たちを見守らなければいけないという立場なのかもしれません。 今回の展示は、主宰するアトリエ展と同時開催のため、そこを少し深く考え、わたし自身の自己を作る際の「他者」というものを意 識してみました。 現代は「他者」が手触りや手応えや経験から想像のつく、人間や自然であるとは限りません。デジタルという仕組みを介することは「他者」をより複雑なものにしているように感じます。 この会場では、展覧会の会期中ほぼ毎晩子供たちと元南極観測隊員の石井洋子さんとの対話「南極を知る」が行われます。映像などで南極についての知識がある子供は多いでしょうけれど、石井さんを通して知る南極はそれとどう違うのでしょうか? そうした背景をもとに、この『南極/相対的「わたし」』は作られています。
2020 年 12 月 13 日 佐立るり子
1「南極」2020年 キャンバス、油絵具 (左から 97.0×130.3cm,80.3×100.0cm,45.5x 53.0cm,24.2x 33.3cm)
南極に行ったことがない。頭の中で想像してみる。人が住めない場所だというから、宇宙に近いのではないか?空気が澄んでいると聞いたから、色がきれいに見えるのではないか?光のつぶつぶが見えるのではないか?人の想像がつかない生物が、人にはわからない理由で移動しているのではないか?デジタル写真の加工に慣れた頭では、その風景はトリミングされ、ズームイン、ズームアウトされる。それらをそのまま描きだそうとするが、キャンバスに油絵具をおくと、風景は、ただの絵の具を載せた面になり、色のかたまりの集まりと変わった。「南極は氷に覆われていて白いけれど、太陽の光がつくり出す空の色や、オーロラの色、星明かりがそれに映し出されて色にあふれている。」と実際に南極で越冬した人は言った。
2「鉛をかじる虫」転写
長年、何かを行う度に思い出していたこの文章を、今回どのように「表現」できるかと考えたとき、壁に直接そのままの形態を写し取りたいと思った。しかし、会場の条件で直接は難しいため、白いパネルを作り壁の代わりとした。実際に映し取ってみると、プロジェクター本体の機能と、長時間にわたる作業による身体的な理由で、パソコンの文字でも、書き写す人の文字でもない文字が現れた。(寺田寅彦全集 第二巻 著者・寺田寅彦 2009年 岩波書店)
3「かけらを売る」
2020年春コロナ禍での体校中、主宰するアトリエの子ども達と一緒によく畑でかけらをひろい集めていた。ゆっくり歩きながら目をこらすと、ガラスのかけら、陶紫のかけら、ひとつひとつ形がちがう古いおはじき、古いビー玉などがあり、どれも宝物のようだった。子どもが欲しがればすべてあげていたけれど、それを後で子ども達の親が捨てていたことを知る。価値とは人によって違うものだ。何が合理的かどうかも同じように異なるのかもしれない。
(「でね この間から 疑問に思ってんだけどこの石、この辺にゴロゴロしている石と同じにみえるんだけどな」「この川原で捨ったものです」「エへへへ やっぱり! で 売れるの?」「・・・・・・・・・ ・・・・・・・・・」
つげ義春著『無能の人・日々の戯れ』 新潮文庫刊より)
4「畑まんが・あおむしのあお」
子供達の興味に導かれ、見逃していた世界のあり方を知る。たくさんいて、普段はつぶしてしまう青虫の中で、“あお”をとても大切に感じている。人の感情は不思議なものだ。意味があるかないかは、こうした積み重ねの先にしか存在しないのかもしれない。
(「あんたが、あんたのバラの花をとても大切に思っているのはね、そのバラの花のために、ひまつぶししたからだよ」
星の王子さま 著者・サン=テグジュペリ 訳・内藤濯 2000年 岩波書店 より)
写真撮影:小岩勉